ホフマー
No.22「 ホフマー」(חָכְמָה)
「わたしは知恵(アニー・ホフマー)」(箴言8章12節)
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●知恵の書と言われる箴言に、「知恵」と訳されたヘブル語「ホフマー」は何と105回使われています。その8章には「アニー・ホフマー/知恵であるわたし」(原文は「わたしは知恵」)というフレーズがあります。使徒パウロはこの「わたし」を「キリスト」と解釈して、「キリストは、私たちにとって神からの知恵」(Ⅰコリ1:30)であると記しています。「神の知恵」とは、神を知ることと同義です。「この世の知恵」、すなわち人間の知恵によっては神を知ることはできません。同じ「知恵」ということばを使ったとしても、「神の知恵」と「この世の知恵」は全く異なり、区別すべきものです。それらを混ぜ合わせることなどできません。
●「神の知恵」は「光」の概念と同様に、目に見えない、知り得ない神の永遠のご計画、神のみこころ、神のみむね(喜び)、神の目的を含んでいます。パウロはそれを「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」「神を愛する者たちに神が備えてくださった」ものだと表現しており(Ⅰコリ2:9)、その一つ前の節では、「この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」と述べています。その意味は、神に敵対する者たちの企みをも用いて、神はご自身のご計画を実現してしまわれる方であるということです。
●また「知恵であるキリスト」は、御国の福音をたとえで語られました。それは分かりやすくするためではありません。聞く人が関心を持って尋ね求めないなら、悟ることはできないという「神の知恵」なのです。さらに、「あの書(=いのちの書)に記されている者」(ダニ12:1)は人生の中でキリストと出会い、必ず永遠のいのちにあずかることが、世界の基が据えられる前から定められています(エペ1:4~5)。その選び(救い)は「神の知恵」によるものであり、誰の名が記されているのかは私たちには分かりません。
●すべての人は、罪のゆえに例外なく目の見えない状態で生まれてきます。それは神がすべての人をあわれむためです。目の見えない者たちが「私たちをあわれんでください」とイェシュアに叫んだ時、イェシュアは深くあわれんで、彼らの目は見えるようになりました(マタ20:34)。同様に、やがて終わりの日に盲目だったイスラエルの民も、私たち教会も、イェシュアによってそれぞれ目が開かれてメシア王国に入ることができるのです。それはまさに主の「あわれみ」です。パウロはこのあわれみについて「ああ、神の知恵・・は、なんと深いことでしょう」(ロマ11:33)とたたえています。
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